平塚神社の紹介

 東京都北区にある平塚神社は、900数十年前、鎌倉幕府が創建される150年も前に
活躍した(源頼朝の四代前の祖父に当たる)源義家(八幡太郎義家・河内源氏の嫡流)
三兄弟をご神体とする神社である。

 神社の社宝「武州豊島郡平塚郷上中里村平塚明神縁起」によると、源義家は、当時
奥州と呼ばれていた東北地方を平定し(後三年の役)、帰路、北区一帯
を含めた広大な地域の領主であった豊島氏の居城平塚城に一泊した際、
当時の城主豊島近義の厚いもてなしに感謝し、義家の持仏十一面観音像
と鎧一領を与えた。
 豊島氏はのちにこれらの品々をこの地に埋め(その塚が平らであったので
平塚の名が付いたとされる)、その居城の守護神とし、さらに源家
三兄弟(八幡太郎義家・賀茂次郎義綱・新羅三郎義光)の影像を祀ったのが、平塚神社の
起こりである、という。社殿裏の甲冑塚がその塚であるという(北区の歴史・名著出版刊より)。


 八幡太郎義家に関しては、「天下第一の武勇の士」(白河法皇)「武士の長者」(中右記)
と評され、歌才もあり、千載和歌集に和歌が収録されている。
 前九年の合戦の折、敵の安倍貞任に馬で迫りつつ「衣のたてはほころびにけり」
と義家がと叫んだのに対し、貞任が「年を経し糸の乱れの苦しさに」と上の句を返したので
義家がこれを見逃したという逸話もある。

 また、義家の父頼義が奥州の安倍氏と戦った前九年の役に同行し、1057年(天喜5年)
11月に数百の死者を出し大敗した黄海の戦いで、わずか六騎残った官軍の退却を助け、
義家の射る矢は神の如しと称えられた。甲冑を着けた敵を次々と射殺し、
父頼義がその援軍を得て奥州の安倍氏をやっと滅ぼしたとされる出羽の国の
清原武則が、「君が弓勢を試さんと欲す。いかに」と問うと、甲冑3枚を樹の枝にかけ、
一矢でこれを射抜いたという逸話が残されている(陸奥話記)。

 東国における武門の習いは義家がこれを整備したと言われ、武門の棟梁としての
名声を一層高めた。この名声をを恐れた白河法皇は、後三年の役(清原氏の内紛に義家が
介入して清原清衡に加勢し、出羽の国金沢柵に清原武衡・家衡を破った)を私闘とみなして
論功行賞をしなかった。そこで義家は河内の国石川荘の私財を投げ打って
功績のあった将士に報いた。
 このことにより、かえって義家の武家の棟梁としての信望は高まり、源氏と関東武士団の
結び付きは強固なものとなっていったとされている。

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